例えば、お前が朝目覚めたとしよう。
いつもの朝。寝ぼけ眼をこすりながらお前は、布団から這い出して洗面所に向かう。
歯ブラシと歯磨き粉を手に取り、白いペーストをブラシの上ににゅるりと押し出す。
鏡を見ながら歯をごしごしとこすっていると、背後から父親が近づく。振り返りもせず、朝の挨拶。
「あ、おはようー」
「안녕.」
お前は一瞬、父親がなにを言ったのか分からず、きょとんとした表情で父親のほうを振り向く。
「당신은 오늘은 일찍 일어나기군요?」
笑顔で語る父親。しかし、なにを言っているのかさっぱり分からない。
お前の頭の中は、徐々に真っ白になってゆく。
父親だけでなく母親も、兄弟も、そして街に出ると全ての人が、わけのわからない言葉を話している。
街の風景も、学校の中も、全く今までと同じ。ただ、全ての人々の言葉がお前には理解できないのだ。
ショックで気を失いそうになるお前に寄り、心配そうに言葉をかける友人が何を言っているのかもさっぱり。授業では、先生が意味不明の言葉をまくしたてながら黒板に、これまた意味不明な文字をものすごい勢いで書きなぐっている。まさかと思って、ポケットに忍ばせているMP3プレイヤーをこっそり再生すると、歌手が切なそうに、しかし意味不明の歌詞を歌っている。校庭の向こうにそびえる広告の看板にはこれまた意味不明の文字が躍り、休憩時間になると生徒たちが意味不明の言葉で楽しそうに喋っている・・・
・・・お前だけが、日本語を喋っているという日本だ。そういう日本を愛せるか?
オレはムリ。申し訳ないが。(A`)
昨今喧伝される「日本を愛する」というのは突き詰めると、「日本語を愛する」という意味になる。
それは道理であり、日本の文化や風俗、社会はすべからく日本語を用いたコミュニケーションにより育まれているからだ。戦争で、勝者が敗者の言語を徹底的に殺すのはそういう意図があるからであり、一度殺された言語は容易には蘇り得ない。民族は滅びたも同然となる。
オレは単純な嫌韓厨や日本賛美が嫌いだが、その理由もここにある。
日本語を大切にしない者が跋扈する日本になんの魅力があるか。富士山があろうが東京タワーがあろうが、米があろうがみそ汁があろうが、生活が快適であろうが水が安かろうが、日本語が死んだ日本であれば、言葉から言霊が抜けた日本であれば無価値だ。そう考えている。
「ホワイトカラー・エグゼプション」のどこに言霊が潜んでいる?
「マニフェスト」のどこに言霊が潜んでいる?
「インフォームド・コンセント」のどこに言霊が潜んでいる?
「ソーシャルワーカー」のどこに言霊が潜んでいる?
「イノベーション」「インセンティブ」「アジェンダ」「アウトソーシング」のどこに言霊が潜んでいるんだ?
オレには、ピンとこないカタカナを列挙することで実態を隠蔽しようという、もしくは言葉を輸入した者の功名を挙げようという卑屈な言霊しか感じられないんだが、お前はどうか?
国を愛する教育などは全く必要ない。
日本語を愛する教育を行えばよろしい。
無闇に美化するのでなく、日本語のよい面・悪い面をともに認識し、大切に使えばよろしい。
それだけで国はよくなる。
「まず名を正さん」とは、そういう意味だとオレは理解している。