先日、2ちゃん発で大騒動になった、さくらちゃん募金事件。
「死ぬ死ぬ詐欺」とは言い得て妙だが、これ以降も様々な方々の募金活動が止むことなく続けられている。
募金活動について、世間ではあまり指摘されない苦言をひとつ呈したい。
ボランティア結構、募金活動おおいに結構。
小さな善意を集めることでひとつの命を救うことができるなら、それは素晴らしいことだ。
が、原理原則を忘れてはいないか。
代償ゼロで金を貰うのは、世間では乞食と呼ぶ。
自分ら、集団で乞食活動をしているという自覚はないのか。
難病の少年少女を救う、というまことに素晴らしい大義名分に酔い、本来これは乞食と変わらないのだという自覚を失ったボランティアが行き着いたのが現状ではないのか。
かたや難病の他人を救うため、かたや食うや食わずの自分を救うため。どちらが崇高かという話ではなく、もしその自覚があるなら「募金は1000円以上でお願いします」などというたわけた言葉を吐けるわけがなかろう、ということだ。
同じことを乞食が言えばどうなるか。「ナメてんのかてめえ」となる。
乞食であれば、金を恵んでもらえば「おありがとうございます~」と恭しく土下座をするのが筋だろう。
募金ボランティアも同じことをすればそれは逆に気持ち悪いのでやめておくとして、少なくとも募金により命を永らえた者のその後を、それこそ死ぬまでWebなどで公開し続けるくらいは、無数の善意へのお返しとして責務にすべきではないのか。
毎日更新では大変だろうから、3日おきでもよろしい。本人が書けるようになるまでは両親が、そしてやがては本人が、出来事や思ったことなどを書き綴り続ける。募金した人々はそれを見て、自分の小さな善意が今確かにここで息づいていることを確認し、ささやかな幸福をも感じることだろう。
そこまでして初めて、乞食ではなく募金だと呼ぶべきだ。
違うかね?
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コメント
打算で言うなら、例えば乞食にしても本当は金持ちとかいうのもおり(広島太郎など)、別段純粋である必要はないとは思いますが、しかし建前には準じなければならないのではないか。ソレが嫌なら最初から「難病の子供を救うために募金をお願いします。見返りは一切ありません。お金は返しません。募金の用途は公開しません」等を説明すればよろしく、それが物事の筋だと思うのです。
暗黙の了解を掘り起こし、明文化する。明文化した内容には準じる。
この件に限らず、今の日本で最も必要とされるのはそういうことではないかなと愚考している次第です。(´・ω・`)
募金したことによって、いずれは自分に幸福が返ってくるのでは、という思想に基づいてされる方がおられるようです。
(もちろん、この限りではありません。本当に無償で募金して下さる方も多く見えます。)
お金を払って対価を得るのが売買の基本ですから、募金活動=商売とも言えなくもないかもしれません。
無形物の購入ですから、サービスになるのでしょうか。
募金活動と乞食活動(?)の最大の相違点は、募金活動をする方もまた、そうした打算があってやる場合があることだと思います。
例えば特定団体で募金活動を行い、それをどこかへ寄付をした、という記事があれば、
その団体は、世間的体裁の向上をしつつ、宣伝効果を得られるでしょう。
募金額やその手間などとの対価としてのバランスはさておき、普段は買えない"信頼・信用"を金銭で得る事ができる手段の一つではあると思います。
もちろん、性善説のように、人類が"助ける"行為の大切さについて正しく理解して、こういった行為へ身を投じるなら、
世の中こんなに悪くならなかったのかもしれませんね。